2022年09月16日

蚊の活動温度

昨日のこと
「蚊も暑すぎると活動しない」
と話しているのを耳にした

今年は蚊取り線香を使わない、、
とアップしたばかりだから気になった

そこで便利なネットの力を拝借
ググってみると、、どうやらそうらしい

〇〇℃を超えると蚊も夏バテする?

当たり前のことだが、世の中には知らないことが多い
知ってるつもりでも、詳しくなると逆に知らないことが増えて無知に驚く
でも、一つ覚えたぞ  

Posted by パパパ at 08:31Comments(0)日々徒然

2022年09月15日

そういえば

そういえば、今年は蚊取り線香を炊いていない
蚊が気になったのは稲荷様の拝殿の雨漏りのかき出しの際
短パンと半袖のむき出しのところに防虫剤をかけたくらいで
家では蚊にお目にかかったことはない

流石に今どきの蚊取り線香は電子式で
カセットを変えて使用するが
昔ながらの渦巻のものはここ数年使っていない

そういえばゴキブリも夏の初めに見ただけで
これもゴキブリ団子を置いてから見かけていない

これらは良いことなんだが
今年の夏は本当に変な気候で気持ちがスッキリすることはなかった

昔、ものすごく暑い夏のとき、ボウフラが生息する水たまりも干上がって
蚊の発生が抑えられたことがあった
今年は雨が多くてそんなことはないはずだったが、我が家に関しては
風物詩には出合わなかった

また台風の前の蒸し暑い日が続く
早く秋の気候になってほしい
ホント、年々夏が嫌いになっていく

  

Posted by パパパ at 09:30Comments(0)日々徒然

2022年09月09日

大活字本

こんなに楽なのか!
と驚きを覚えたのが、図書館から借りた「大活字本シリーズ」の一冊


老眼が進んで、活字に接する時はハズキルーペが必須のアイテムになっている
その度に、ハズキはどこだったっけ?
と探していると
「ちゃんと決まった場所に置いておきなさい」
と、いつも叱られる(そうは思っているのだが、、、)

図書館に大活字本があるのは知っていたが
なんだか妙に老人ぽくてプライドが許さない気分だった
それでも夏の暑い時期、少しでも気軽に読めるほうが良い
と初めて手にした

ホント、楽ちんだ
スラスラ読める
大きい活字は少し幼稚な気がしないでもないが
一旦体験すると、その快適さからは離れられないかもしれない

活字が大きいのでいページに収まる文字が少ない
そのせいでページがどんどん進む
このスピード感は本を読んでいる充実感につながっている

大活字本の欠点は、ページ数が多くなるという点だ
借りた本は、通常本では一冊で収まっているものを2冊にしている(と解説にあった)
あとは、大活字本の種類がそんなに多くないということだろう
ある程度読む人が多くないと大活字本を作っても無駄になってしまう
自分が探すようなへんちくりんな本は一般的なニーズとは違うので
大活字本にする価値がない、、と判断されそう

だが、念の為に次に行くときは大活字本のコーナーを
じっくり回って見るとしよう

大活字本に慣れてしまうと、普通の文字の本が読めなくなりそう
それが少し不安!


  

Posted by パパパ at 09:05Comments(0)日々徒然

2022年08月29日

白河の関と逢坂関

暑いとどうも調子が出ない
省エネしてあちらからのコピペ

高校野球で仙台育英高校が優勝し、やっと優勝旗が白河の関を越えたと
メディアで伝えられてから、白河の関が一気に注目されているようだ

白河の関で、いの一番に思い出すのは高校の時授業に出たこの歌だ
「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」能因法師

意味は、都を春霞が立つころに旅立ったが、もう秋風が吹いている
この白河の関では。

覚えているのはこの歌が気にいってるからではない
実体験を歌ったものなら、旅人として日焼けしているはず
それを青い顔をして歌うならば違和感を生じる、、
といった屁理屈が気に入って覚えているのだ

実際白の河の関がどこにあるか知らないでいるが
他にも知らない関に、百人一首に出てくる逢坂関がある
(源氏物語にも出てきたような、、、)
「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」蝉丸

この歌を覚えているきっかけは、英語訳のこの歌が気に入っているからだ
それは
So this is the place!
The crowds,
comming
goinng
meething
parting
friends
strangers,
known
unknows-
The Osaka Barrier

この英語の歌は本家よりも寂しさが感じられる(ように思う)

人が何かを覚える(覚えている)きっかけというのは、本当に様々だ
だがその覚えていることが人の生活を豊かにしていてくれる(と思う)
つまりは覚えていることが多いほうが(人生の)勝利者かもしれない
その記憶が良いも悪いもひっくるめて、、

※百人一首の英語訳はこの本








  

Posted by パパパ at 10:14Comments(0)日々徒然

2022年08月24日

約束の時間の守り方

昨日、4回目のワクチン接種を行った
二日目の現時点は、若干腕が重いと感じるだけで
それ以外に大きな変化はない

摂取の予定時間は14時半からだった
当たり前のように14時10分くらいに家を出て会場に向かった
すると、会場入り口には10人を超える人が並んでいた
日本人はそうだよな、、、と感じた次第だが
以前、小学校の算数の試験で、こんな回答を提出した子が話題になった

その問題と言うのが
「AさんからBさんの家までは歩いて25分かかります
 今時計は7時を指しています
 AさんがBさんの家まで歩いて8時までに着くようにするのは
 何時に家を出れば良いのでしょう?」

解答者は「7時30分」と答えた
要求された答えは「7時35分」なのだが、
解答者は、なにかがあったときの為に早めに出かける家族の習慣を見ているので
念の為に5分早く出発することが現実的だと考えたのだ
算数的ではなくて、実生活上では解答者の答えのほうが現実的だ

この回答は間違いかどうか?
というのが話題になったのだが、マルバツをつける先生は解答者に
事情を聞いたのか?が気になるところだ

日本では、約束の時間前にそこにいるのは半ば常識的になっているらしいが
(沖縄は違うらしいが)ドイツでは、招待された時間前に家を訪問するのは
非常識とされるそうだ
約束の時間ギリギリまでドイツ人は家を飾ったり、何らかの準備をしているので
早く来られて、それを見られるのは嫌と感じるからだそうだ
だから、少し遅れていく、、というのが心遣いのようだ

ということで、ところ変われば、、の一例だが
物事は、ちゃんと知っていないと、不要なトラブルのもとになってしまうかも

  

Posted by パパパ at 09:40Comments(0)日々徒然

2022年08月20日

パパゲーノについて

夜遅いから絶対見ないと思うが、NHKの番組に気になるタイトルのドラマがあるのを知った
「ももさんと7人のパパゲーノ」8月20日 夜11時から0時

自分のブログタイトルの「パパゲーノ」の名が入っている
以前、紹介したことがあるが、パパゲーノはモーツァルトのオペラ「魔笛」の登場人物だ
このオペラは「魔笛」という響きから想像されるオドロオドロしいものではなくて
「魔法の笛」でイメージされる、子どもも好きそうなメルヘンチックな作品で
どちらかといえばドタバタ喜劇の様相がありながら透明感のある作品で
ゲーテが感激し、その後編の台本を作ろうとしたとか

職業鳥刺しのパパゲーノはいい加減な人物で
人が見ていないと思えば手柄(蛇退治)は自分のものとするし
バレた罰としておしゃべりを禁止されても口を挟みたくなったりする
そして辛抱とか辛いことは大嫌い
恋人女房があればいいのにな、、と愚痴ったりする
そして運がなくて生きていても仕方ないと自殺しようとする羽目になり
自殺までのカウントダウンを始めるが、「3.2、、、」
そのテンポは段々遅くなっていつまでも最後まで行かない
誰か止めてくれ、、と祈るように、、、

結局、彼は救われることになるが、いい加減な人物でも
彼にとって楽しい結末に至ることは、赤塚不二夫ではないが
「それで良いのだ」と肯定的な人生観を「魔笛」からなんとなく実感できる

世の中には「パパゲーノ効果」という言葉があるらしい
ウィキペディアによれば
マスメディアが人生相談や自殺を思い留まり成功した例を挙げることで
大衆の自殺を抑制する効果のことである

魔笛の中で、パパゲーノが思いとどまったように
何らかのきっかけがあれば自殺は抑制できるという考え方だ
コロナ禍で自殺する人が多いと報道されているが
このドラマで少しでも気分転換ができたらと思う

話は飛んで、ブログタイトルの「パパゲーノの夢」に戻ると、夢は具体的には何か?
となりそうだが、実はいい加減なパパゲーノらしく何も考えていないというのが実態だ
それで良いのだ、、と言い切るのは多少気が引けたりするが、、、

  

Posted by パパパ at 09:07Comments(0)日々徒然

2022年07月22日

時代劇がなくなった世界

ムシムシしてやる気がでないので、手抜きしてあちらからのコピペ

不意に(いつものことだが)テレビ番組に時代劇がなくなって
世の中がどう変わったかを考えてみた
昔は水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍、銭形平次などの
時代劇が当たり前のようにあった
これらのドラマは簡単に言えば勧善懲悪の物語だ
様式美とは言えない決まり文句で
見てる人にカタルシスを与える結末がいつもあった
見てる方もわかっていながら安心してそれを見ていた

だが今は時代劇はあまりない
その代わりタレントさんがひな壇に並んで、クイズとか
ひらめきを披露している番組が多い

それが日常になると人びとの心にどのような影響を与えるのか?
を想像してみた
勧善懲悪が当たり前の世界は、悪いことをすればお天道様が見ていて
いつかバツを食らうという認識を知らず識らず身につけるのではないか

時代劇には弱者に感情移入する場面もある
そしてそういう人たちがいつかは救われるように願う
こうした人として自然な感情の流れが、予定調和のような勧善懲悪で
スッキリとすることができる

最近のどこか余裕のない社会は、こうしたみんながごく自然に願う
普通に正しいことの結末を見ていないからではないか、、と思ってしまう

昔の人はもうう少し余裕があった
落語の「文七元結」でも「井戸の茶碗」でも、登場人物は善人で
その行いは馬鹿だなあと思いつつ、そうした人が存在することが
世の中に安心感を与えていた気がする
(見聞きする方も、それを受け入れて)

実際のところ、時代劇が人の道徳心にどのくらい影響があるかわからないが
それでも悪いことはアカンとシンプルに言い切る世界は必要だと思う
(刑事ドラマのような問題提起型ではなくて、今こそ勧善懲悪が必要と思う)

外国人が日本に来て一番奇妙に思えることは
日本人がなんの違和感も感じない時代劇だと思う
大河ドラマで楽しむだけでなく、時代劇のこうした勧善懲悪の世界も
見直すと良いような気も、、、
(だが、若い人は少しも面白いと思わない?)


  

Posted by パパパ at 09:12Comments(0)日々徒然

2022年07月17日

家に帰って最初にすること

この時期、家に帰って最初に行うことは靴下を脱ぐことだ
一枚履いているだけで暑い
床に直に触れるほうが気持ちいい
何をおいても解放されるように裸足になる

そこで毎回気づくのは靴下が思いのほか湿っていることだ
足ってのは随分汗をかくものだと実感する
なるほど、こんなに汗をかくから靴は臭くなるのだな
と妙な考えが浮かぶ

足の汗のかきかたは、5本指の靴下のほうが水虫には良いかもしれない
一つ一つの指を覆っている生地がそれぞれ汗を吸い取るほうが
普通の靴下のように指の間に籠もった汗を外側の生地だけで吸い取るよりは
効率的なような気もする

5本指の靴下は履いた瞬間も気持ちいい
どこか身体のバランスも取れそうな気さえする
だが履くのが面倒くさい
さっと履けるわけじゃない
一本一本指を通してエイヤッと引っ張る

靴下を履いて、脱いで、、
そんなことが繰り返される毎日
夏はかなわんな!  

Posted by パパパ at 10:56Comments(0)日々徒然

2022年07月06日

説得力

今回も少し前のあちらからの真面目な話
(というより、変なこと考えているな?)

説得力について思うこと
同じような話をしても説得力のある人とない人がいる
それは話し手の力量とか人格によるものだが
今日の話は、話の内容についての違い

説得力は聞き手の力量によってもかなり違う
力強く断言してシンプルに対立点を浮き立たせて、自説を訴えるパターンがある
聞き手の中に、それは一方的な視点すぎるとか、肝心な部分を敢えて触れないでいる
と感じる人も出てくると、疑いが生じて、その主張は説得力を持たなくなる
だから客観的に反対からの視点も混じえて、それでもなおかつ自説のほうが良い
と話すほうが、冷静で客観的と評価され説得力をもつ

ところが、聞き手の方には多様な視点からの話をされると迷ってしまう人がいる
普段からその内容について考えていなかったり、情報が少ない人などがそれに当たる
その人たちにとっては客観的な話は、頭が混乱するだけで説得力は持たない
「一体何が本当なのだ、手っ取り早く、こうだ!と説明してほしい」
と考える人が出てくるのは容易に想像される

つまりは話し方は、聞き手の力量によって変えるべきということになる
この聞き手の力量がどうあるべきかとか、そのくらいが現実的かという問題は
かなり深刻な問題のように思われる

一部の「意識高い系」と称される人々には、客観的な多様な視点からの主張が好まれるが
絶対数からはシンプルに断言してもらったほうが良いと思う人のほうが多いのではないか
(わかりやすいために納得しやすい?)

このシンプルな断言系は一歩間違うとポピュリズムに陥りそうだ
物事の知り始めは妙に過度な自信を持ってしまうダニング・クルーガー効果というのがあって
シンプルなわかりやすい情報を好む人はこれに陥ってしまいそう

現実問題として多数の人が客観的な判断ができるようになるのが望ましいが
この数字の割合が国の民力を示しているかもしれない
(最近は選挙を控えて、巷にセンセーショナルな言説が多いのでつい不安を覚えてしまう)

結局のところ、教育の問題かな、、、とつくづく思う




  

Posted by パパパ at 10:01Comments(0)真面目な話

2022年07月05日

投票率の詳細な調査をして欲しいものだ

昨日、期日前投票に行ってきた
前回との同日比は、全国的には1.2倍ほど上回っているらしい
投票日当日もその傾向が続けば良いのだが、、

ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」(3)の中には
政権の支持は、その支持者ではなく、無関心だったり
投票等の行動を起こさない人たちによって成り立っている
との指摘がある
結果的に、いかない人の(行動しない人の)意見は
その時の政府に白紙委任と解釈されてしまうかもしれない
(それでいいのかな?)

ということで、面倒くさいことをあれこれ想像してみた
一部あちらからのコピペ

若者の投票率が低いと問題視されている
年代別の投票率のデータはあるようだが
これをもっと細かく年収別、学歴別、就労形態別等
ブルデューの「ディスタンクシオン」のように細かな調査をしたら
どんな結果になるか興味がある
(どこか、だれかやってくれないかな!)

投票も習慣の一つと考えると
それが習慣になっている家庭とそうでない家庭の差は大きく
「投票に関わっている時間などない」とする忙しい若者の言い分は
実は年収も学歴も就労している企業に恵まれていない状況の人たちでないか?
と余計な心配をしてしまった

いろんな社会的な問題を我が事のように感じ考える!
というのがシティズンシップ教育、あるいは主権者教育だが、
この感覚を難なくできている人たちは、その社会的な環境を知ってみると
恵まれた人達が多い

その人達は自分たちがおかれている状況と、他とを比較でき
なにかに気づくことができる環境下にある
何かに気づくというのは天啓のようにいきなりやってくるものではなくて
違いを感じるところから始まるものだと思う
人のことを気遣う余裕があるのは人間性によるが
その人間性を育める環境とか教育は、社会的な環境に大きく左右されそうだ

親ガチャで外れたと実感している人は優先順位は
気づきとか我がことのように思うどころではないかもしれない
それはマズローの「欲求段階説」のようにまずは初期の段階がクリアされないと
次の段階に行けないかもしれないのとどこか似てる
(マズローのそれは時間経過による達成ではなくて
 単にヒエラルキーがあるとしているだけかもしれない)

つまりは勝手な想像だが、若者の投票率は政治が社会に与える影響を考えるられる人
その教育を受けている人、または実際に政治によって利益を得ている人はそれなりの投票率で
反対に低いのは政治が自分の生活につながっていると実感できない人たち
(教育されていなかったり、自分のこと以外に関心を持てない傾向があったり)
ではないか!と思う
それは結果的に、生活弱者は自分たちで自分たちを良くするというチャンスを逃して
自ら弱者の道を選んでいるような気がする

以上は単なる想像の域だが、個人的には
社会学とか政治学を扱っている大学とか
あるいはメディアなどが調査してくれないかな、、、と思う

それにしても親ガチャとか格差は、のっっぴきならぬ問題だ
(と心配性のおっさんはそう思う)





  

Posted by パパパ at 05:49Comments(0)真面目な話

2022年07月04日

ベストセラー商品の購入割合は、国によってどうなのだろう

今回もあちらからのコピペ
少し前のくそ暑い日に、つい思ったこと

気温で商品の売上は変わる
アイスクリーム・豆腐・ビールは暑くなれば売れるので
気の利いた店員さんがいるところは、頻繁に商品の陳列を
工夫するらしい

アルコールは養命酒!というくらいの方だが
流石にこの二三日の暑さは水物が欲しくなって
ビールを買いに出かける

そのビールだが、実はなかなか欲しい物が見つからない
銘柄にこだわるほどの飲み手ではなく、
かと言って何でも良い!という方でもない

どうせなら美味しいに越したことはない
たくさん飲むわけでないから、少しくらい高くても気に入るものをと
プレミアムビールを購入することが多い
(確かに普通のビールより美味しく感じる)

だが、正直なところコンビニにあるビールの銘柄はちょいと不満だ
そこには自分の欲しいビールがない
飲みたいのは小麦のビールであるヴァイツェンビールだが
大手のメーカーはもう作っていないのか
作っても売れないのか、、最近は全然目にしない(キリンの雅は美味しかったのに)
銀河高原ビールも並んでいない

コンビニの冷蔵庫にあるのは定番のものばかりか価格にお得感のあるものばかりだ

不意に日本人はベストセラー商品の購入率は、外国人のそれと比べてどうなのだろう
と頭に浮かんだ
商品を沢山の中から選ぶのは面倒なので、ベストセラーの中から選ぶのは
時間的な効率とか選択の安定性から合理的なのかもしれない
だが口に入る嗜好品は、みんなが口にするからといって選ぶのは個人的には抵抗がある
やはり気に入るものを手にしたい

日本人は本当に自分で選んでいるのだろうか
自分で選んでいるようでも、実は選ばされているのではないか
ベストセラー商品は質が高いからベストセラーになっているのではなくて
ベストセラーという情報が巷に行き渡っているから良いものと
無条件に信じているのではないか

インターネットが初期の頃、ロングテイルという言葉が流行った
あまり売れていない個性的な商品は、インターネットの世界では消費者の絶対的な数が多いので
割合が少なくてもその数は積み上げると商売が成り立つというのだ
際立った商品こそがインターネットでは売れるとさえ言われていた
しかし今は、インターネットの世界でも定番商品が幅を利かせている
やはり大量に売れるものを扱うほうが効率的という現実からは逃れられないのだろう

ところで国別の各ジャンルの商品のトップ3の売上比率は
日本と同じような傾向があるのだろうか

ビールで言えばドイツでは大手メーカーという存在よりも地方の醸造所が
競っているような印象がある
だから、ドイツでは売り上げトップのシェアはさほど高くないのではないのでは
と思ってしまう

このベストセラー商品(上位3位)のシェアの各国の比較は面白そうな気がする
というのは、思い込みかもしれないが、日本は自分で選んだり、考えたり、判断するのではなくて
他人が(多くが)支持しているということを、あまりにも安易に受け入れている国ではないか
と思えてしまうからだ

これは拡大解釈をすれば、選挙行動についても同様な行動をするのではないかと想像してしまう
多くの中のひとり、そこで自己が安心する(オルテガのいう大衆か)

最近は日本の社会は権威主義的な傾向が強いと実感する
家系とか出自とか学歴とか資産だとか
定まっている評価・印象(政党などについて)は何があっても変わることのないようだ

「世界にひとつだけの花」というのは歌の中の世界であって
あるべき世界はそのように歌わなければならない!
というのが現実のような気もする

この同質化への安心感は、なかなか捨てがたいようで
日本人がこれから開放される日は来るのだろうか、、
と余計な心配をしてしまう



  

Posted by パパパ at 15:02Comments(0)真面目な話日々徒然

2022年07月03日

映画「24の瞳」上映会

あちらからのコピペ

昨日の土曜日、趣味というべきかライフワークというべきか
気に入った映画をみんなに見せるのが好きな人がいて
その一つの上映会があった
「24の瞳」松竹の白黒の作品で、高峰秀子が主演だ

市の文化会館の小ホールが会場で、
彼の誘いなら仕方ないと土曜日の午後の時間をともに過ごそうとする
同窓会のメンバーのような人が70人弱
自分は彼より少し若いので、この上映会の素材のレンタルの手続きを手伝った

「24の瞳」は名前は聞いたことがあるが、中身は全然知らない
まずは腰を据えて見るしかない

昔の映画だな!と思わせる様な松竹の文字が大きく入る
船が音楽とともに海の上を進んでいく
音楽は大好きな「アニー・ローリー」だ
なんでイギリス民謡なのだろうか?
と思いながらも、この導入で映画を見る気が一気に高まった

古いバスが舗装されていない道を走る
いかにも昔はそうだったと感じさせるような田舎の風景が続く
白黒で色はついていないが、想像力で不足分は補えるのでさほど苦痛は感じない

この映画は反戦映画なのだろうか
それとも、先生と生徒の成長物語なのだろうか
時の流れや社会は残酷で、それでも人は生きていくと思わせるような
出演者の人生のエピソードが映される

昔オルハン・パムクの「雪」を読んだとき、
登場人物の生きている背景が細かく描写されて
リアリティと物語の厚みを覚えたことがあったが
この映画でも12人の生徒の家庭環境などが細かく描写され
それは自己責任では済まされない半ば運命のような、諦めるしかない生き方も
否応なく感じさせられた
今で言えば「親ガチャ」とその後のような話だ

誰のせいでもない(少なくとも生徒個人のせいではない)というメッセージは
自己責任を強く要求されるような現代の傾向に、何故か問題提起をしているように思われた

やはり戦争の影は大きい
当たり前のような平和な話とか考え方は、社会から自発的(?)に失われていく
そしてその空気は男の子に軍隊に入ることとか、国のために戦うという意識を育む

24の瞳 つまり12人の生徒の生き方は、男の生徒は4人ほどが戦死
女性は病死したり、豊かだった家が破産して苦労するはめになったり
貧乏だった子は早くから働きに出たり、修学旅行だけは一生の贅沢としていかせてもらえた子や
音楽的な才能があって音楽で生きていきたいと強く望みながらも家業を継がなければならなかったり
つまりは、ほとんどの人が思い通りにいかない
主人公の連れ合いも戦死しているし、子どもも事故で失くしている
でもこの物語は悲劇ではなく、慰めのような終わり方が待っている

この映画は時々音楽が流れる
「アニー・ローリー」は意外だったが、殆どは唱歌で「浜辺の歌」とか「荒城の月」とか
「仰げば尊し」とか、、ときに軍歌も違和感を持たせるために挿入される
この音楽の挿入(使い方)はストーリーに直接関係ないかもしれないが
とても効果的のように思われた
不意にイギリス映画の「眺めの良い部屋」でもストーリーの変わる度に
音楽が挿入されているたことを思い出した

最初と最後の方で「アニー・ローリー」が使われていて、そのまるで回帰するような効果は
人は最初と最後は統一的になにかしたがる傾向があるのだろうか!と思わせるのだった

映画の見方や感じ方は、見る人のタイミング、社会の状況によって大きく違ってくるだろう
映画が終わって駐車場で「今の時期だからこそ、この映画は良かったね」
と言葉を交わした人がいた
本当にそう思う
だからこそ穏やかな映画上映をライフワークとしている人物は
この作品を見せたかったのだろうか


  

Posted by パパパ at 15:41Comments(0)日々徒然

2022年06月25日

虚栄心と、くじけない人

真面目な話  あちらからのコピペ

参議院の選挙が始まった
若い人の投票率が上がらない、、などという声もあるが
Youtubeではタレントさんが自発的に投票を呼びかけている

先日の東京の杉並区の区長選では投票率が5%あがって
大きな変化が見られたようで、冷笑的に眺めている人も
動けば変わる!と実感できれば良いのだが

最近、自分たち庶民に代わって物事を決める権利を持つ議員さんについて
思うことがあって、去年読んだマックス・ウェーバーの
「職業としての政治」をパラパラとめくった

その中に学者さんのモデル化した理屈の内容ではなく
いかにもありそうな部分があったので書き残しておいた

職業としての政治 マックス・ウェーバーから(※116から117ページ)
政治家は毎日、毎時間のように、自分のうちに潜んでいる瑣末で、あまりにも人間臭い〈敵〉と戦い続けねばならないのです。この敵とは、ごくありふれた虚栄心で、これはすべての仕事のへ献身の、そしてすべての距離(この場合には、自分と距離をおく事ですが)の不倶戴天の敵なのです。
 虚栄心は、誰にでも見られる特性で、虚栄心のない人はおそらくいないでしょう。そして学者や教養のある人々では、虚栄心はある種の職業病のようなものになっています。しかし学者の虚栄心は、どれほど鼻持ちならないものであっても、比較的無害なものなのです。原則的にこれが学者の仕事を妨げる事は無いからです。 しかし政治家の場合にはそうはいきません。政治は避〈避けられない手段〉として、権力を追い求めるからです。その意味では「権力本能」とよく言われますが、この本能は政治家にとってはごく当たり前の資質なのです。しかし政治家という職業の聖〈聖なる精神〉に対する罪が始まるのは、この権力の追求が仕事への献身とは関わりなく、個人的な自己陶酔の対象となるときです。
政治家という仕事にはいわば2種類の大罪があります。仕事に献身しない姿勢と、無責任さであり、この2つは同一のものではないとしても、しばしば重なって現れるものです。虚栄心とは、自分ができるだけ脚光浴びるようにしたいという欲望のことで、この欲望のために政治家はこの2つの大罪の片方を、ときには両方を犯すよう、強く誘惑されるのです。民衆政治家(デマゴーグ)の場合には、「効果」を考慮に入れなければならないだけに、この誘惑は極めて強いものとなります。 そして俳優のように振る舞い、自分の行為に対する責任を軽く考え、自分の行為が与える「印象」ばかりを気にするようになる危険に、常に脅かされているのです。


つい誰かを想像してしまったが、自分が想像している人物とは違うひとを想像するのは
それほど難しくないだろう

議員は選良と言われることがあっても、現実は極めて人間的な感情のやり取りの要素が多いことは
自分の市の議員さんを見ればわかる
賛否の判断の基準は本質ではなく属性(誰が言うか、どの党だとか)で決められていることも
多いように見える
また個人個人の関心事が狭い範囲に限られているので、全てに適切な判断ができているか
といえば、そこは怪しいかもしれない
(正確な判断をするためによく調べるなどということはないので)
だが、多数が間違うことはないだろう、、とする現在の制度では
文句が出そうなときがあっても、仕方ないかもしれない
それにしても、個人の資質に依存することの大きいこと、、

ありそうなことではなく、こうあってほしいとする政治家のモデルは
本の最後の部分にこう書かれている
(これは国会議員の分野だろうが)

※156から157ページ
政治という仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、硬い板に力を込めて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事です。世界のうちで不可能と思われることに取り組むことがなければ、今可能と思われることも実現できない事は確かですし、歴史が示す経験からも、それは確かなことです。 しかしこれを成し得るのは、指導者でなければならないのであり、単に指導者であるだけではなく、素朴な意味で英雄でなければならないのです。そして指導者でも英雄でもない人は、すべての希望が挫折しても耐えることのできる心の強靭さを、今すぐにそなえなければなりません。それでなければ、今可能であることでさえ、実現できないでしょう。
現実のうちで貢献しようとしているものと比較して、世界がどれほどに愚かで卑属に見えたとしてもくじけることのない人、どんな事態に陥っても、「それでも私はやる」と断言できる人、そのような人だけが政治へ「召命(ベルーフ)」「天職」をそなえているのです。

理想を語り、諦めず、意見の違う相手の尊厳を認めた上で
具体的な知恵を出せる人、、、
そういう人を選ぶことが、今回できれば良いのだが

※「職業としての政治」マックス・ウエーバー 日経BPクラシックスから



  

Posted by パパパ at 07:51Comments(0)真面目な話

2022年06月22日

他人の評価

少し前の、あちらからのコピペ

食べログが評価のアルゴリズムを変更して
ある飲食店の評価が急に落ちて客数が減ってしまった
困り果てた飲食店が裁判を起こした結果
地裁では食べログ側の敗訴となったらしい

他人の評価を参考にするのは無駄な失敗しないコツかもしれないが
自分はあまりこれらを参考にするタイプではない

食べ物なんて食べてみなきゃわからないし、評価している人の感性が
自分と合うかわからない
実は、自分がものすごく美味しいと感じているラーメン屋が豊橋にある
このラーメン屋はそれほど有名ではない(と思っている)
もっと知ってもらいたいという気持ちがある反面
有名になって食べるのに苦労する(並んだりして)のは嫌だ
だからいつまでもそんなに有名であってほしくないような気がしている
(あのつけ麺は、東京で食べたものより名古屋で食べたものより数段上だった)

他人の評価に左右されないのは、ベストセラーをあまり購入しないところもある
本は売れ行きなどは全く気にならない
書店では奇跡のような出会いが楽しみで、そこに運命を感じる
音楽もみんなが良いからと言って全面的に受け入れてはいない
むしろ、耳にしたとき心に響くかどうかだけが判断基準だ

もっとも年齢を重ねているので、その感性は新しいものを受け入れないように
なっているかもしれない(仕方ない)

ということで、選挙でもみんなが支持するから投票するなんてことはない
自分の琴線にふれた人、気になる人、そうした人に投票している

だが、食べログでこれだけ問題になっている他人の評価の力は無視できない
これを思うと、投票に影響を与えすぎると思えるような
選挙前の当落予想の報道は本当に必要か?

本当に選挙前のこうした報道はどうなんだろう
確か、どこかの国は確か制限をしているような記憶がある
日本は「寄らば大樹の陰」的なメンタリティ(あるいはケインズの美人投票的傾向)
があるから、この手の報道は規制したほうが良いと思えるが、、




  

Posted by パパパ at 09:11Comments(0)日々徒然

2022年06月13日

名古屋にでかけたら

久しぶりに名古屋の宗次ホールにでかけた

開演は14時からで、その前に二度目のミロ展を訪れた
撮影可能なものがあって今回遠慮なく撮影させてもらったのは、こちら


相変わらず理由はわからないがホッとする

2回目の鑑賞は、作品以外の変なものが印象に残った
それはミロ自身を紹介するコーナーに、彼の工房の大きな写真があって
そこにはあの落書きのような作品がゴロゴロと無造作に置かれていて
それらが、何とも温かい空気を醸し出していた
その場所にいたいなとか、見たいなと思ったりした

今回はグッズも少しだけ購入した

ミロ展に入る前にオアシスでは3オン3をやっていた


少し驚いたのだが、このスポーツは想像以上にフィジカルコンタクトがあって
優雅というより、戦いに近いような印象を持った
だからこそ面白いと感じるのかもしれない(?)

ということで、巣ごもりから脱出して外に出ればいろんな気づきや発見がある
これからは暑くて大変だが、適度の外出は必要かもしれない
(夏のマスクは本当にしんどいが)

  

Posted by パパパ at 09:52Comments(0)日々徒然

2022年06月02日

「それを言うとは、、、」

「〇〇くん、靴!」
ちゃんと履かず、後ろの部分を踏んづけている〇〇くんに向かって
一学年下の女の子が叫ぶ
(自分の口癖を覚えたのか?)

「これ持って」
とバッグを手渡す〇〇くんに向かって、今度は
「自分で持ちなさい」
と叱る

思わず笑えてくる
つい最近まではその小さな子が、お姉ちゃんがいなくなるのを確認してから
「これ持って」
と渡していたからで、彼女にそれを言える資格はないのに、、、

別の誰かがツッコミを入れる
「前に△△ちゃんもやってたよ!」
(やられたね!)

今朝のちびっこたちとの校門までのウォーキングタイムでの会話
いつも大した会話ではないのに、どこか心がホッとする

このウォーキングは大した距離ではないので健康という面では
体調よりも心の健康に役立っているかも
  

2022年05月30日

頭を良くする3つの方法(もしくはボケない方法)

またしても、あちらからのコピペ

ツイッターに「頭を良くする3つの方法」が投稿されていた
自分の頭の限界はわかっているし、今更頭が良くなることは期待しないので
「頭が良くなる」を「ボケない」と言い換えるといきなりリアルな話となる

まずは「頭が良くなる3つの方法」は
1つは人と出逢うこと。もう1つは本を読むこと。そして最後の3つ目は『旅』だそうだ。
これは「ボケない方法」として無条件に納得するし、実感もする。
要は外部の刺激を受けることによって、様々な比較もできるようになるということだ
フト感じたり、違いはなにか?何故違うと感じるのか?と考える
そうすることによって脳が刺激を受け考える力が鍛えられそうだ

だがここに必要なのは、この3つをしようとする気力(もしかして体力も)
気力に頼ると当てにならないので、無理矢理にでもこれらの3つを習慣化しないと
いけないかもしれない

だが楽な方にどうしても行ってしまう(魔笛のパパゲーノのように)
「言うは易し、行うは難し」も実感する  

Posted by パパパ at 18:25Comments(0)日々徒然

2022年05月26日

小学生の逆上がりの目的は、、、

またもや手を抜いてあちらからのコピペ

先日のNHKの「チコちゃんに叱られる」は頷くところが多かった
「なぜ小学生は逆上がりをするのか?」
がテーマで、結論から言ってしまうと
それは努力すれば報われる成功体験を実感する為だそうだ

番組では小さな女の子が逆上がりをするために
いろんな練習の様子が紹介されていた
最初は全くできない
鉄棒に体が近づくことさえできない
そこで、まずはマットで後ろ周りの練習をする
次は蹴り上げる練習をする
こうして段階的に合理的な練習が続けられる
女の子は練習の段階でもできないことできるようになるのが
楽しいという感覚に結びついているようだ

練習というのは効果的な方法があるものだが
この子は70時間ちょっとでできるようになった
それまでには手のひらの皮が擦りむけたり
疲れて前できたことができなくなるような事もあった

でも負けん気とか悔しいという気持ちは
なんとかできるようになりたいという思いを支えている

テレビを見ているだけのこちらもつい声を出して応援してしまう
そしてできたときの達成感、喜び
わかるなあ、、とこちらもシンクロしてしまう

この努力すれば報われるという成功体験は本当に大事だ思う
今年の2月に成功体験というタイトルであちらのブログでも紹介したが
自分がサッカーのコーチ時代の出来事が、この逆上がりの成功体験と
全く同じだった

彼はパントキックが上手くできなかった
他の子は難なくできているようなキックがどうしても上手くできない
自分の中でタイミングやらボールの置き方を試行錯誤する
そんなある時偶然うまくいった
「できた!」と声に出す彼の嬉しそうな顔
だが次にやってみるとうまくいかない
さっきできたから、今度もできるはずだ!
彼はなんとかもう一度できるようになりたいと必死になる

一週間後、おなじキックの練習をしてみる
やはり上手くいかない
「この間できたよね!」
と声をかけると、頷いてその練習に集中する
そして上手くキックできる割合が徐々に増えていく

彼はこの時、練習すれば上手くなるということを
身にしみて感じることができたと思う

今の子供たちに真に必要なのは、こうした成功体験ではないだろうか
与えられたり言われたことを卒なく上手く行うよりも
自分で必死になってなんとかしようとしたことが
時間をかけることで(努力することで)解決するという実感

これなどは今自分たちが関わっている外国をルーツにもつ子供たちの
日本語の勉強にも実感して欲しいものなのだ

だが、現実は厳しい
いつか本人たちが気づいてくれると良いのだが  

Posted by パパパ at 18:33Comments(0)日々徒然

2022年05月24日

訓練、あるいは教育

あちらからのコピペ
ちょいと小難しい話?

人は生きてきた歴史や環境が違うから考え方が違うのは当たり前だ
だがそれをそのまま認めるのは意外と難しい
特に日本のような同質性の高い国、同調圧力の強い国、
社会正義を強要する傾向のある国は、違う意見の少数者は声に出しにくい

一般的に対話と討論とディベートは違うらしい
対話は意見の相違を認めた上で円滑な話し合いの争点などの整理を行い
妥協点をも探し出す行為
討論はディベートと似ていて話し合いで白黒をつける行為ということらしい
(知らんけど)

最近は対話ではなくて討論とかディベートが幅をきかして
弁舌の技術が高い人が有能と思われ勝ちのようだ
だがそこには一歩間違うと不毛な対立ばかりが生じてしまう
ということで、今こそ求められるのは対話(ダイアローグ)だそうだ

最近知った対話の訓練をする方法がなかなか面白い
ある時、教育現場で最近の出来事のロシアのウクライナ侵攻をテーマに行われた
ここに工夫があって対話の参加者は、くじ引きでグループ分けをされる
あるグループはロシア、別のグループはウクライナ、また他のグループはポーランド
ベラルーシ、スウェーデン、ドイツ、フランス、アメリカ、中国等の立場に立つように指定された
そして各グループは独自にそれぞれの事情を理解するために情報を独自に集める
それが終わった時点で、自分たちの立場を踏まえ、どうすべきかを話し合うという段取りだ

現在の日本のような西側の立場の情報やら、なすべきことの多い選択肢と違って
それぞれの事情を踏まえていくと、そこでは結論の出ないような頭を抱えることが多くなって
簡単に答えは出にくくなってしまう
だが、それでも対話をする、、という行為は、簡単に結論を出すよりも意味があるとしている
(と自分も信じたい)
それこそが熟議の民主主義と言われるらしい(?)

相手の立場を客観的に知るということは、自己の感情と相容れない結論を知ることにもなる
その時の自分の感情のコントロールの訓練になる
感情的な判断がいつも間違うとは思わないが、感情をコントロールした判断は
当事者同士の理解に説得力をもつ
そしてそれは相手側の人間の尊厳を認めるということになる

ということで、何でも役立つのは訓練とか場数だな、、
教育は教えられるのではなく、訓練だな、、と思う昨今
(そこには、いろんなアイデアがあるものだ)




  

Posted by パパパ at 10:03Comments(0)真面目な話

2022年05月19日

ミロ展

なぜ好きなのかを説明するのは難しい
だが好きになった瞬間のことははっきり覚えている

先日、本当に久しぶりに名古屋まで出かけた
お気にいりのミロの展示会を見るためだ
(ミロ展 日本を夢見て 愛知県美術館)
会場はそれほど混んでいるとは言えない
その分ゆっくり見られていい

自分が好きなのは後期の部類にはいるのだろうが
黒と赤と黄色とか緑を使った落書きののような絵
なんだかよくわからないが、とにかく愛着感を覚えるのだ
(安心感も)

そうそう、これこれ、、、と思いながら展示作品を見てると
作品の隣にカメラの印があって、撮影可の文字があった
SNSの投稿も可能ともある

そこで遠慮なく撮影したのが



上の作品は今回の展示会の紹介に使われているもので
馴染みがあるが、大きな画面を目前で見るとまた違った印象を持つ

そう言えば東京上野の西洋博物館に展示されているミロの作品も撮影可能で
2016年にちゃっかり撮影している
それが


誰でも描けそうな単なるいたずら書きみたいだが、遠くから見ていても
ミロの絵がある!とすぐに分かって吸い寄せられるように近寄った

何が良いか、なぜ好きかは言葉にしにくい
食べ物を味わってる本人が美味しいという表現でしか言えないのと同様に
好きだという感覚は、、共通項は感情の面ではあるかも知れないが
言葉の世界ではどうも不十分な気がしてしまう

ミロを知ったのは、そして一気にお気にいりとなったのは
豊橋にかつて存在した西武百貨店のイベントがきっかけだった
ある時、版画の展示即売会をやっていた
本当に何の気無しに覗いただけだったが
ある絵の前で釘付けになった
それはハガキよりも少し大きなくらいの絵(版画)で自分には
その絵から不思議な空気が発散されているような気がした
優しさとか温かさ、、それがほんわかと溢れていて
なんだこれは、、と作者名をチェックして
それがミロだと覚えるきっかけとなった

以後、ミロに関する情報はいろいろ目に入るようになって
岡崎で行われた展示会も見に行ったし
彼の作品が多く載っている本も手にした

こうなる彼の作品を手元に置きたい
と思うのは自然のことだが、本物は気楽に求められる金額じゃない
豊橋の画廊にも版画の作品があったが、金額面だけでなく
もっといい作品(気持ちにフィットした)はないのだろうかと迷ってしまう

ということで、手元にあるのは展示会でお土産用に売られていたハガキが数枚
その中で、額に飾って目につくところにあるのがこの絵


抽象的なので、なんとでも味わったり理解しようとすることができる
でもそんなことを思うより、ただただ良いなあ、、と思うことのほうが
より楽しめるような気がする

バルセロナにはミロの美術館があるらしい
そこには行ったことはないが、自分には有名なガウディの建築物よりも
ミロのほうが気になる(ペドリのいるバルサも気になるが)

この展示会は7月3日まで開催されている
先日は久しぶりの外出で疲れてしまい、本調子がでなかったから
気分を改めてもう一度行くことになるかも、、、